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阪神優勝記念コラム 人民兵の狂信的阪神ファン日記
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2003年9月15日、18年ぶりの阪神優勝に関西のみならず日本中が沸いた。
熱狂して道頓堀に飛び込んだ人数およそ5300人。
その興奮は海を越えてアメリカに居を移した人民兵にも映像として伝えられてきた。
私はその昔熱狂的阪神ファンだった。ところが、星野監督が宙に舞う姿を見ても、今回の優勝に何の感慨も沸いてこない。
十数年の月日が人民兵を阪神ファンというよりただの巨人嫌いに変えてしまった。
あんなに阪神を応援していたのに・・・
昔を振り返って思い出した。そういえば、私は昔阪神タイガースを優勝させたことがあったのだ。
忘れていた。あれは確か1985年のことだった・・・
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大阪で生まれた・・・
人民兵は19**年7月に大阪府東大阪市で生をうけた。
大阪で生まれるということは、ほぎゃあと産声をあげたその瞬間から阪神ファンになることを宿命付けられたということであって、
人民兵もそのご多分にもれず、両親から親戚一同にいたるまで全て阪神ファン。ものごころついた頃より、
いつ阪神ファンになったかなどという記憶すら全くない。
強いていえば、この世に生を受けた時から・・・ということになる。
*写真右:無理矢理です。
その裏に屈辱的なまでの東京コンプレックスがあることを知ってか知らずか、由緒正しい関西のガキはみな巨人嫌いになり、
子供ながらに人民兵も「東京がなんぼのもんじゃ」といきがってみせた。
こんな土地柄だから東京弁を操る不埒な転校生が虐められるのも無理はない。
そして、挙句の果てには打倒読売グループを人生の指針に据えてしまったりもするのである。
お好み焼きをおかずにご飯をかっ込み、
散髪するたびに近所のおばはんに
「いやー秀ちゃん、えらい男前になってー」と頭をたたかれる。
そうこうしているうちに、食べなれたたこ焼きでさえも白球に見えてくるから不思議だ。
そうなると俄然、阪神の応援にも熱がこもってくる。
明確な理由もなく、ただ闇雲にのめり込んでゆく点は、新興宗教と似ているが、
ただ、それに比べると大阪の阪神ファンは社会の受け皿がしっかりしていて、応援する態勢も整っている。
延長延長で試合が延びて14回になろうが、
日付が変わろうが、サンテレビという地方局が必ず毎試合終了まで放送してくれるし、
勝とうが負けようが天○陛下でも亡くならないかぎり、翌日のスポーツ新聞の一面は阪神で埋まる。
当時上岡龍太郎が京都テレビというこれまた関西でも電波を傍受するのが難しい小さな局で
「ゆけゆけタイガース」だかなんだかいう訳のわからない番組を持っており、毎回のように
「皆さま今晩は、私が阪神タイガースのオーナー上岡りゅうたろうです」
などと自己紹介するものだから、幼い私は
「オーナー自らが番組の司会をするとはなんちゅう気さくな球団や、こらますます応援せなあかん」
などと思ったものだった。
人民兵は普段の生活でも
小学校の6年間、
一日の休みもなく阪神帽を被って登校した。
のみならず、公園で遊ぶときもデパートに買い物に出掛けるときも、常に阪神帽が一緒だった。
6年もの間かぶり続けた薄汚れた帽子は、一年生の時不似合いに大きかったくせに、
6年生の時には縮んでしまったように後頭部を締め付けた。 今考えるとオカシナ話だが、
その頃はあの薄汚れた阪神帽がなによりもおしゃれで格好いいものだと信じていた。
6年生になったある日のこと、友達の干場君(仮名)がこういった。
「人民兵はいつまで阪神帽被っとくつもりなん?」
「死ぬまでさ」
本当に今考えても不思議だが、私はそれが『男』の生き様だと信じていた。
我が家にテレビがやってきた
我が家は貧乏だったこともあり、少年時代にテレビが無かった。
テレビを買ったのは1984年ロサンゼルスオリンピックを見るためだった。
傷んだ足を引きずりながらエジプトのラシュワンを抑えこんだ柔道無差別級の山下泰博に声をからして応援したものだった。
そんなわけで、多感な少年時代をテレビ無しで過ごした人民兵は、
つまりそれまでの数年間を毎日ラジオの前で手に汗しながらタイガースを応援することに費やしていた。
毎試合毎試合、ラジオの前でありとあらゆる相手選手への呪いと味方選手への激励を送り、
84年当時にはそれは狂信的なものになっていた(と思う)。
そしてついに待望のテレビが我が家にやってきて、ブラウン管に色鮮やかに映し出された選手の姿は人民兵の目に深く焼きついた。
阪神を優勝させる方法
「阪神を優勝させた」などと言うと、半ば妄想癖でもあるかのように扱われ、
「よっしゃ、じゃあ来年一つ優勝させてくれや。それやったら信じるからさ」
「優勝まではいいけど、明日のマリナーズくらいなら勝たせられるやろう」
なんて言われて困ってしまう。
そういった人間は全く理解していないのだ。弱小球団を優勝させるには長い年月をかけたデータの積み重ねと、人をも殺しかねない殺気が必要なのだ。
この人民兵とて、1985年の一年で阪神を優勝させたわけではないのだ。
真弓明信に34本の本塁打を打たせ、池田をエースに育て上げ、バースに三冠王を取らせたのは誰あろう、この人民兵なのだ。
コツをつかんだ
思い返せば1984年のシーズン開幕間もないある日のことだった。阪神は相変わらず弱く、当時の弱小球団ヤクルトスワローズに7回くらいまで大差で負けていた。
チャンスらしいチャンスも無かったところにフォアボールとデッドボールだかで一死一二塁のチャンスが回ってきた。
ようやく巡ってきた好機に、吉田監督は何を思ったか、浪速の春男児こと川藤幸三を代打に送り出してしまった。
川藤幸三といえば、打てない・走れない・守れないの三拍子揃ったヘボ選手の代表で、
パンチパーマにどこか愛嬌のある風貌と、天然ボケの受け答えがマニアの間で評価されているだけの選手だった。
蛇足だが、インタビューの時に
「川藤さん、座右の銘は何ですか?」と聞かれて
「両目とも2.0や」
と答えたことであまりにも有名な人物である。
とにかく、そのだるそうな顔をしたパンチパーマのドテッパラを見たとき、
「ああ、こいつじゃ打てんわ」
と思った人民兵は試合を放棄して、理科だったかの参考書を取り出して読み始めた。
すると、目を離したすきにテレビから大歓声が鳴り響き、なんということか川藤が打った打球はレフト・センター間を深々と破る走者一掃のツーベースヒットとなったではないか。
ところが、次のバッター平田は守備の名手だが、いかんせん打撃が悪い。いつも2割の3分くらいで行ったり来たりしていた。
「こりゃだめだ」と思ったが、ここで諦めるわけにはいかないと、彼の細い目を真似て必要以上に目を細めて念を送ってみた。
すると・・・彼の鋭い当たりはサード強襲の内野安打になり、
タイガースはこのままイケイケで打者一巡の猛攻を見せ、試合をひっくり返してしまった。
この時以来、私は川藤が打席に立つ毎に参考書を引っ張り出して読んでいるフリをするようになった。
その後の彼の活躍は皆が知るところである。
阪神を優勝させる方法:投手編
こんなことを書いて誰かに真剣に真似をされたら、狂信的ファンの多い球団が優勝してしまうかもしれないので、
実はあまり言いたくないのだが、人民兵がどのようにして弱小球団阪神タイガースを優勝まで導いたかをここに説明したい。
まず野球は打たなければ勝てない。相手投手をいかにして切り崩すかで勝負の行方が決まる。
人民兵は、テレビに相手投手が映ると、例えばそれが巨人のエースだったら
「江川のボケカスシネ江川のボケカスシネ江川のボケカスシネ江川のボケカスシネ江川のボケカスシネ・・・」
と映像に映っている限りこの台詞を出来るだけ早く口にするのである。そしてその間は決して息継ぎをしてはならない。
私の研究では、これを行っている間、投手の球速は平均して5Kmほど落ち、変化球の切れは約20%悪くなるという驚くべき結果がでている。
難しいのは、ボケカス・・・と言っている時に味方チームの選手に映像が切り替わったりすると、マイナスの効果が現れてしまうということだ。
優勝当時の猛虎打線といえども打ち損じは必ずあった。そういったものの多くは、この呪いが味方打線に跳ね返ってしまったものだ。
つまり、これを念じている間は一瞬たりとも気を緩めるわけにはいかない。集中力と根気のいる作業である。
味方の投手が投げる時は、人民兵も投球モーションに入り、彼が投げると同時に思いっきり手を振り下ろすのが効果的だ。
その際に「ハウッ」と言いながら気合いを入れると尚よい。これによって相手打者はバッタバッタと三振に倒れてしまうから不思議だ。
これを一試合まるまるやると、汗だくでぶっ倒れそうになるという非常に危険な技だ。
阪神を優勝させる方法:打者編
味方選手が打席に入った時は、これが難しい。逆に言うと私の腕の見せ所でもあるわけだ。
選手一人一人に違うジンクスがあるので、それに合わせた儀式を行わないといけない。
例えば私の大好きだった掛布雅之はバッターボックスでの癖が人一倍強い。
彼は打席に入って、軽くベースをバットの先でコンコンとたたくと、バットをくるりとまわし、ヘルメット、腕、胸、太腿の順に触って、
腰を振ってから最後に陰部を一掻きするのである。
早くからこのことに目をつけていた私は、長年の研究の末に、彼と同じタイミングで私が腰を振って陰部を手でさわると、
必ずと言っていいほど長打が生まれることに気付いた。
この法則を発見した85年当時、栄光の背番号31は40もの本塁打を記録している。
*絵上*掛布にホームランを打たせる方法(絵心がないので5時間もかかってしまいました)
史上最強の助っ人=ランディ・バースの場合はもう少し単純だが体力を使う。
ぷくっと突き出た彼のお腹をイメージしてヨガの水魚のポーズをとるのである。
彼が打席に入っている間は、このポーズを崩してはならない。このポーズは腹筋と背筋を酷使するので、バースの打順が回ってくると
期待半分、少し憂鬱な気分になったものだ。
「お前そんな偉そうなこと言っても、あのバースだって60%の打席は凡退しているじゃないか」
という声が聞こえてきそうなので、もう少し説明すると、あくまでこの人民兵とて神様ではない。常に100%ということはありえないのだ。
ゲームの行方は様々な外的要因によって影響される。
例えば雨の日に腕組み正座で鼻くそをほじくりながら真弓を応援していて、彼がその打席にホームランを打ったとする。
けれど晴れの日に同じことをして同じことが起こるかは分からない。
ただ、一つ分かることは、次の晴れの日にも必ず腕組み正座で鼻くそをほじらねばならない、ということだ。
もしかしたら、正座+腕組み+鼻くそ という組み合わせが真弓に神がかり的な力を与えていたかもしれないではないか。
それで駄目だったら、それはこちらの念じ方が足りなかったか、方法が間違っていたかのどちらかでしかない。
新たな方法を血眼になって探せばいいだけのことだ。
そうこうしているうちにだんだんとエスカレートして、やれ北村が出れば逆立ちしながらストローでジュースを飲むだの、
木戸の打順では、テレビの埃を払うだの、巨人の槙原が先発すれば右手を後頭部にまわして左の耳を掴むだの・・・
とにかく、ここには書ききれないくらいたくさんのデータとジンクスを収集し、それを多角的に調査し、
物凄い念を送りながら実行するのである。
当たり前のことだが、試合が終わると下手をすれば出場していた選手よりもこちらのほうがグッタリとしていることもザラだ。
そして、まあ結果から簡単に言ってしまうと、皆さんがご存知のように、私は1985年にタイガースを日本一にすることに成功した。
しかし、それを見届けた後、私は阪神を応援することを一切止めてしまった。
一つは、弱小球団を優勝に導いたことで一つの区切りがついたこと、
そしてもう一つは日本一の優勝セールに出掛けた阪神百貨店が全然安くなくてキレてしまったことが遠因かもしれない。
この先、人民兵が生きている間に再び阪神タイガースに熱中することはまずないだろう。
ただ、あの時の優勝は自分の成果として、人民兵の中で大きな金字塔として今も燦然と輝いている。
ここで人民兵が言いたいのは・・・
たとえ一人の人間でも命がけで念じれば弱小球団を優勝させてしまうことも可能だということである。
2003年、この年に阪神が優勝したということは、私のように様々にポーズを変えて強烈な念を送っていた人間が今年もいたということである。
阪神優勝は今の私にとってどうでもいい。ただ、願わくはナベツネ巨人軍オーナーが言うように、
巨人がプロ野球機構を脱退してとっとと独立リーグ作って欲しい。それでどれだけのファンがついていくのか、今から楽しみで仕方がない。
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